昨夜、そう、ちょうど昨夜のことだ。
深い紺色の夜空にたくさんの星が明るく瞬き、夏の虫達が我が物顔で目一杯に鳴いていた暑い夜だった。
私は弟と共に長老に呼ばれた。父がそれを知らせ、私と弟は夕食を終えた後、散歩がてらとでも言わんばかりに、村の中心を流れる小川のそばで蛙を見つけたり、草笛を作ってどちらがより長く吹けるか競ったりしながら、長老の屋敷に向かった。一目見ただけでそれとわかる、村で一番大きな屋敷である。
だだっ広い部屋の中心に座っていた長老は、私たちの姿に気がつくと、なにやら口をもごもごさせながら、手招いた。彼女の前に正座した私たちは、これから言われるであろうことを予感していたのだが、サダルは緊張していたのだろう、部屋に入ってからひどく肩を強張らせているのが丸わかりで、私と目を合わせる余裕すらないようだった。サダルと比べて多少余裕のあった私は、長老の白髪頭に刺さった派手な髪飾りが左右非対称であることが気になっていた。白濁に濁った眼ではもはやその確認すらできないのだろう。誰かなおしてやればいいのに、全く側近どもも気が効かない。

長老は我々の祖祖母に当たり、私たちが暮らすこの山奥の村全体を治めている。とはいっても、長老はもはや年も三桁を越え、近頃はめっきり耳も遠くなり、母ですらまともな会話を諦めていると言った始末。そんなだから実際の自治に関しては私の父親が行っている。要は形式上の長老といったところだが、彼女が未だ長老として村人から慕われているのには理由がある。祖祖母には不思議な力があって、未来をぴたりと言い当てることがあるのだ。時々誰かを呼びつけては謎かけのような予言をし、あまりに意味が不明瞭で言われた方も何のことだかわからないのだけど、ことが起こってから、ああ、あの時長老が言っていたのはこのことだったのか、と気づくといった具合。失せものが見つかるとか、懐妊の知らせだとか、気候の変化やはたまた天変地異、内容は様々で、昔は今よりもっと正確に言い当てたらしい。今では予言の神秘性に磨きがかかりすぎて、結局なんのことだか判明せずに時が過ぎ、言われた本人も忘れているということが多い(言った本人にしても然り)。そうはいっても、その中途半端さがまた皆にとって、より神秘的に見えるという有様だったので、きっと彼女は死ぬまで長老の座に居座るだろう。何、悪い人じゃない。ただ身内からしてみれば少々頭の呆けの方が心配なだけだ。

長老なんて役職が与えられているために、この自給自足の閉鎖的な村に何か致しかたない用があって訪れる人々はまずこの耄碌婆さんのもとを訪れる。例によってそれが昨日のことで、仰々しい馬に乗った、我々の村ではついぞみないような金の飾りや深紅の染め布を用いた衣服に身を包んだ大和国からの使者が長老の家に来ていた。夕方には帰っていったようだが、彼らの訪問に村人たちが浮足立ったのは何も大和国からのお達しが数十年ぶりであるから、という理由のみではない。むしろ都からの使者は数十年に一回定期的に来るのであり、その目的も毎回同じ、一つである。

ヤマト国の尊が先日十六歳の誕生日を迎えた。
天皇の血筋のものは、十六の年になると代々何かしら試練を与えられる。それは単に力試しであったり、実際に国で必要とされる働きであったりと、様々であるが、旅を伴う試練であることはいつも同じであるらしい。先代は日向国にクマソ討伐のため遠征した。そのとき従者としてついていったのが私達の父と叔父である。アメノウズメとサルタヒコの尊の血を引く我々一族は、こうして代々の天皇の旅路を先導する役割が与えられている。
現スメラミコトの皇子がようやく旅に出られる年になり、我々の出番というわけだ。
我々のほかにも血筋のものはいるが、一番体力気力ともに期待できるのが、年齢的に我々だったということらしい。だからこの時期、皇子が十六になったということは私と弟にとって、とても運が良かった。


小碓の尊が、再び勢力を盛り返してきたクマソの討伐に出る。そのお供をせよ。

以上の通達。


村のみんなは喜んだ。父は「私達の誇りだ」といって涙ぐみ、自分が先代の尊についていったときの話を聞かせてくれた。母は、「体にだけは気を付けて」と言ってやはり涙ぐみ、私達二人を代わる代わる抱き締めた。
長老だけは別だった。我々を呼びだしてから、大和国の使者の言葉を伝え終えるまで、何か終始物憂げな顔をしていて、サダルに席をはずさせて私と二人きりになったとき、しわがれた声で私に言った。
 

「吹雪が見える」

 
長の予言はいつも謎めいていて、今回も私には理解できなかったが、それが良い予言ではないことはわかった。
吹雪、北の地だろうか。季節は冬。そこまでは間違いないだろう。
長老のいつもの予言の仕方を考えれば、それ以上その言葉の意味を乞うのは不可能だとわかっていたので、私はその予言を実のあるものにするために、「ではどうすればよろしいのか」と聞いた。
長老はぴくりとも顔を動かさず、粘土細工みたいにじっと押し黙り(長老の顔は蝋のような皮膚がだらんと垂れ下がって重なっており、本当に粘土細工のように見えた)、しばらくしてようやく乾いた唇を窮屈そうに開いた。
 

「自分の、したいように、しなさい」

 
私はますます訳が分からなくなったが、とりあえず頷いて、サダルが待っていることを理由に外に出た。


サダルは館の入り口に生えている樫の木の幹に中途半端に背中をもたれ、落ちつかなさ気につま先で地面を細かく蹴っていた。私に気がつくと、どっかりと樫に背中を預け直した。
 

「お婆は、何だって?」

 
サダルは落ち着き払った風にそう聞いた。昔から長老が私にだけ話をするのはよくあることだった。サダルは始めこそ自分がのけ者にされているような、信頼されていないような気持ちになってふてくされていたが、最近では慣れてしまったらしい。自分は弟なのだから、兄が代表して話を聞くのは当然のことなのだということで納得している。実際、長老が私だけを呼び出すのは、恐らくサダルは考え込みやすい性質で、彼女の予言が彼の精神状態に支障をきたす可能性を考慮してのことであろう。対して私は何に対しても割合平面的で、今回言われた予言にしてもあまり深く考えていない。物事はなるようになるのだ。
 

「吹雪が……見える」

「え?」

「気を付けよ、旅の行く先はとても寒いであろう。お前は寒さに震え鼻水すら凍るであろう。準備を怠るな、厚着せよ」

「……そんなこと言ってたのか?」

「後半は嘘。でもまぁ、そんなもんだろ」

「ほんっと、お前は適当だな」

 
サダルは苦笑しつつ、私の二の腕を叩いた。

 
「で、本当は?」

「だから、吹雪が見えるってさ。なんのことかは知らん」

「聞けよ」

「答えると思うか? あの呆けた婆さんが」

 
サダルは口の端を歪めて笑い、肩をすくめた。
 

「お婆の予言はよく当たる」

「昔のことさ。最近はさっぱりだよ。隣に住んでる男がいるだろう。もう三十ほどか。嫁さんをもらってもう十年ほどになるが、物心つく頃から死生が見えるなんて言われ続けているらしい。あの通り、ぴんぴんしてるよ」

「おい、あまりでかい声で言うな」

「ま、気にするだけ無駄さ。それよりも出立は三日後だ。お前が最近芸事を怠けているの、知っているぞ」

「違う、単に武術の稽古を優先させていただけだ」


サダルは逡巡した表情でしばらく遠くを見、それから遠慮がちに私に目を合わせた。


「……私も、踊るのか?」

「あったりまえだ。連中が楽しみにしているのはまさにそれなんだからな。仕方ないさ、父上も、祖父も、代々出立の時にはついでみたいに舞を披露してきた。全く、ついでに違いないだろうがな。アメノウズメの血をひくものと聞いちゃ、そりゃ連中黙っちゃいないだろうというのもうなずける。伝統ってのは面倒なものだよ、何にしたってな」


短いため息を吐いた私を、サダルはじっと見つめた。その凝視があまりに長いものだから、訝しく思った私が眉をひそめた時、恐る恐ると言った調子で彼は口を開いた。


「……先に謝っておいていいか」


私は弟の頭を容赦なしにひっぱたいた。


「いった……」

「恥をかかせないでくれよ」


サダルは頭を抱えながら私に向かって怒った猫みたいに鼻に皺を寄せたが、私が家に向かって歩き始めると大人しく後ろをついてきたのだった。

恥をかかせないでくれなどといったものの、私はサダルの舞には一目置いている。
世の中には、例えば何げない風景であったり、誰かのちょっとした表情だったり、特に何というわけではないのに、訳もなく無性に引きつけられるものがある。サダルの舞が私にとってはそれである。ずば抜けた技巧を持っているだとか、体の動きの柔らかな滑らかさだとか、そういった技術が完璧であるとは言えないが、どこか人の目をとらえて離さない彼だけの魅力がある。それは例えば、舞を通じて何かを伝えようとする彼の一生懸命さだとか、どうしても見え隠れする隙だとか、もとより彼が持つ中性的な色香だとか、様々な要素が組み合わさって、絶妙、且つ完璧な魅力を描きだすのである。
もちろん本人にそんなことは言えないが。